牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 傑作と言われていることの意味
- 2017.03.30 Thursday
- 18:25
JUGEMテーマ:映画
傑作と言われながらも色んな事情でDVD化されず作品の再上映もほぼない状態で半ば伝説化していた作品。
去年東京国際映画祭で上映され、今回約4時間のデジタルリマスター版が約半世紀ぶりに上映されるというので行ってきた!
以前に3時間版のものを観ているはずなんだが、興行的に失敗したとか、ソフト化されていないとかそういった事情を全く知らず。
内容もヒリヒリするような圧迫感と時代と人々の心情のうねりに
台湾映画って凄いんだなっていうところまでしか私の記憶力には留まっていなかったのを今回の上映を観たことで改めて気付いた。
1990年代はいろんな映画へと触手を伸ばし始めた頃に台湾は台湾ニューシネマという形で注目を集めていた時期であり
その他にも香港映画でもウォン・カーウァイなどが日本でも爆発的に注目されてそういう単館でかかるような映画を観ること自体がオシャレであるという時期だったんですよねー。
とりあえず意味はわからなくとも観る、みたいな。
1970年代の学生にとってのサルトルやカミュ坂口安吾は当然読んでるよね、みたいな感じ。
今思えば、当時カッコだけで全く理解してなかった(笑)
というのもですね、思った以上に難しい話で、戦前戦後の台湾の歴史背景や共通認識が少なくとも知識ではっきりないとわからない場面や台詞がいっぱいでてくる。
なぜここで母親は複雑そうな顔をしているのか
少年達は何に諦めたような眼差しなのか
父親がどうしてこういう状況に追い込まれているのか・・・
今観ても、ストーリー展開上重要な場面の意味がわからなかったり、ピンとこないところがちょいちょいありまして。
あはは、ダメじゃんっていう。
でも、そういう背伸びって芸術文化の鑑賞には時に必要なんだなーって観ながら思いました。
なんだかわからなくても、凄みのある作品って何かに飲み込まれるような部分というのがある。
それが何十年経っても脳裏に焼き付くので、もう一度観ると花がふわ〜っと香るように色々な記憶の断片や想いが蘇ってくるんです。
心に残る映画を繰り返し観ることの醍醐味みたいなものを味わえた。
主人公の少年一家は上海から渡ってきた台湾では「外省人」。
親はいつか大陸へ戻るかも、いや台湾で頑張っていこうと揺れている。
社会情勢によって自身の立場も行き詰まってみえたり細い希望がみえたり・・・と先の見えない不安感や焦燥感がある。
子供世代は大陸にさして大きな希望も郷愁もなく台湾で生まれ育っている。けれども、親の悲哀や焦りをなんとなく感じており
自身の将来の展望についてもどことなくなげやり。
エネルギーを集団で暴れたりすることでごまかしているようにもみえる。
主人公はごくごく普通な少年。
ちょっとしたきっかけで不良仲間ともどんどん仲良くなっていってあやうい世界に足を踏み入れたりもしているが、10年後にはそれなりの社会人になっているであろう姿が容易に想像できる普通の少年として描かれている。
「優しい青年でとてもそんな残酷なことをするようにはみえませんでした。」という声がここかしこから聞こえてきそう。
子供社会は大人社会の縮図とはよくいったもので、いろいろな人間で構成される世界は
子供の世界も大人の世界も同じで、焦りやいらだちが大人の方にあれば子どもたちの方も合わせ鏡のようにその不穏な空気を読み取るんだな・・・と映像を目撃しながら思った。
一方で少女の方は一見普通で、ちょっと薄幸そうだなーくらいなんですが
(ぶっちゃけ、そこまで美少女にみえないし、監督が探しまくって抜擢した理由が2時間くらいわからずに観ていた)
だんだん話が進むにつれてファムファタールの様相を呈してくる。
「いろんな人が私に告白してくるけど・・・」
などとシレっと言ってるし、主人公に私と永遠に友達なんだよね?とすがってみたかと思うと
主人公の怒りに対して、なんなの?みたいな冷酷な視線をよこしたり。
水面に突如投げ入れられた石のような違和感をジワジワ醸し出してきて後半はみていてえらく緊張させられる存在感。
なんだかものすごい説得力があって、あるべくしてある結末を導いた少女役だったな。
映画を観ながら、自分が置かれている親の世界、かいま見える子供の世界、自分自身が子ども、少女だったときの世情といろんなところに意識がトリップする作品。
抑圧され、そこから吹きこぼれた「何か」が今回の映画の場合は未成年の殺人だった。
誰にでも、どんな時代にも当てはまらない「なぜあの子(人)が」というものがあり
「そんなことはありえない」と思える事件がある。
ある時代を描きながら、それが普遍的に描かれている(ようにみえる)ってことはやはり傑作なんだなと自分の中で腑に落ちた今回の鑑賞でした。